単純化してはいけない経験をどう見つめ直すか
ヤングケアラー。にわかに関心が集まっている。
遅刻がち。欠席がち。ちゃんと宿題してこない。居眠りしている。忘れ物が多い。そんな子どもを、「困った子ども」、「だめな子ども」、そう大人は捉えてしまうかもしれない。しかし、その子どもが家族のケアを担いあえいでいると気づけたら? ケアされるどころか、ケアに追われていると知ったら? その子どもをみる目は大分変わるはずだ。
自立、自助が強調される社会で、ケアは見過ごされがちである。子どもはケアされる存在のはずだと、病気や障がいのある大人とを子どもがケアすることまでは、学校教育等で想定されていなかった。道徳で「お年寄りを敬いなさい」、家庭科で介護を学ばせることはあっても、今ケアでいっぱいいっぱいになっている子どもへの支援はほとんど考えられてこなかった。教室の中には、「自己実現、自立に向かって親の庇護のもと成長発達していく子ども」がいることが前提だったのではないか。
「家族なのだからケアするのは当然。忍耐を」というのも、「なんてこと! かわいそうに!」というのも、ヤングケアラーひとりひとりを単純化してしまう。
私が経験した子育てのことをふりかえってみても、そのことはわかる。苦労もある。でも喜びもある。だからといって、「やっぱりお母さんは仕事より子育てだね」と単純に称揚されたくもない。
ケアを「あるべきではないこと」とするのでもなく、美談として持ちあげるのでもなく、どう見つめ直していくか。
本著に収められた元ヤングケアラーのおひとりおひとりのご経験、それを経ての思い。怒り、悲しみ、緊張感、葛藤、喜び、いたわり。とても具体的で丁寧で、単純化を許さない、途中で書けなくなってしまった方もいるという。書き切ってくださった方がたにも、書くことを断念した方々にも、思いを馳せる。
安直に政治課題に結びつけることは控えたいが(本著の意図とはかけ離れるだろう)、しかし、ケアが特定の人に集中することの重圧感、閉塞感は避けなくてはいけないと改めて思う。
家族以外の他者の言葉や働きかけで傷つくこともあるが、支えてくれた第三者のおかげで、ケアされる人もケアラーも救われたということがそれぞれの語りの随所にある。
となれば、「ステイホーム」といわれ、第三者とディスタンスをとる必要がある感染症禍が、ヤングケアラーにとって一層疲弊するものではないかと危惧する。ケアラーの子どもたちにとって息抜きの場でもある学校を、昨年2 月28 日一斉休校した当時の安倍前首相の政治判断はつくづく罪深い(安倍前首相は「私の責任でやる」と言ったが、ヤングケアラーへの配慮はなく、そもそも調査もしていない)。
ヤングケアラーについて国はようやく全国規模の把握に乗り出すことになった。先駆的な取組として、2015 年、一般社団法人日本ケアラー連盟が、新潟県南魚沼市教育委員会の協力を得て、体系的な調査を実施したものなどがある。厚生労働省も、プロジェクトチームを立ち上げ、文科省とも連携し今後支援策をまとめるという。きめ細やかな支援策が講じられるよう、私も国会で提案を重ねていきたい。
(2021年4月9日)