〈耐えられるDV〉と誰が名づけられるのか
耐えられるDVか、耐えられないDVか。
「平手打ちは何度かありましたが、グーで殴られたことはありません」
「ハサミで傷つけられたことはありますが、包丁ではありません」
「見えるところに傷はつかないよう頭を殴られてました」→
そして「だからDVなんて受けたことはありません」と結論する。
いくつもの離婚事件を担当した私は、そうした相談者に大勢会いました。
離婚相談にいらした段階でもなおDVとは認識しないのです。
子どもにお金がかかる。私のパート収入だけでは子どもを養えない。子どもがなじんだ学校に通わせてあげたい。
多少のことは耐えよう。
よくあることだ。
→これはDVではない。
耐え続けるうちに感情も麻痺し、能面のような面持ちでやって来た被害者が、離婚手続を経るにつれて生き生きとした表情を取り戻していくのを見てきました。
離婚というしんどいアクションに踏み切る方より、耐え続ける方々も少なくないでしょう。
ようやくおずおず第三者機関を訪ねた時に「耐えられるか耐えられないか」が問われるとしたら、あまりに酷です。問われた被害者は「やはり私が我慢が足りないか」と加害者のもとに帰ることでしょう。
「子どものために、私さえ我慢すれば」と被害者が耐えても、悲しいことに「子どものため」にもなりません。
DVが子どもに深刻な影響を与えることはよく知られるようになりました。
抑うつ状態になったり、暴力をふるったり。
もちろん問題行動が再生産されるばかりではなく、涙が出るような気配りができる子どもたちも少なくありません。緊張を和らげようと懸命に気を遣い大人びてしまうのは幸せなことでしょうか。安全な状況なら甘えていられるはずなのに。これもまたヤングケアラーです。
耐えられるか耐えられないかと第三者機関が判断できるはずがありません。
近ごろは調停委員や裁判官も研修などしてDVについて理解を深めていただいているかと思いますが、私の見聞きした当時でも、「何年も前のことでしょう」「たった数回のことでしょう」→「がまんしたらどうですか」という発言が複数回ありました。
耐えられるはずだ(耐えないあなたが悪い)とDV被害を軽視するのは、今に始まったことではありません。
日本国憲法13条や24条のもと、かつての家制度は廃止されました。
戸主をトップとし、年長者や男性がえらい、子どもや女性は従いなさい、ということではなく、個人の尊厳が尊重され、互いに平等とされました。
ところが、家制度的な序列がまだ根強いせいか、あるいは「法は家庭に入らず」という法諺の効果もあるのか、家庭内で弱者への被害が長く放置されてきました。
家庭内の人権侵害も防止し被害者を救済しなければならないと認識され法的な手当がされたのは、21世紀に入ってからのことです(児童虐待防止法2000年、DV防止法2001年、高齢者虐待防止法2005年、障害者虐待防止法2011年)。
このあたりについては、拙著『第3版Q&ADV事件の実務 相談から離婚事件・保護命令まで』(日本加除出版)、『なぜ妻は突然、離婚を切り出すのか』(祥伝社新書)にまとめています。
家庭内の被害者を救済する法整備は、いまだ道半ば。
政治に身を置く者としては、家庭内の暴力、虐待の被害の実態を把握し、足りない立法的手当や運用の改善を図りたいです。
今国会ではDV防止法改正案の審議も予定されており、私も機会があればいつでも質問できるよう、準備します。
遅遅としながらも立法府が進めてきた、家庭における個人の尊重を再び逆行させるかのごとく、「耐えられるDVもある」=「多少の人権侵害は我慢して家庭を保て」といった誤ったメッセージを発しないようにしたいものです。
(2023年1月31日)