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差別がもたらす惨劇を二度と繰りかえさないために

加藤直樹著『九月、東京の路上で 1923年 関東大震災ジェノサイドの残響』ころから、2014年

以下の文章は、2015年12月29日にAmazonに投稿した、『九月、東京の路上で 1923年 関東大震災ジェノサイドの残響』のレビューです。重く受け止めなければならない歴史、しっかり記憶にとどめたい、この本を再びご紹介したいと、掲載します。

子どもが描いたらしい表紙の絵に、まず、ぞっとする。説明をみると、1923 年9月1日の関東大震災直後に小学校4年生による「1人の朝鮮人を、大勢の日本人が武器らしいものを持って追跡している」さまの絵である。筆致の幼さと、官憲その他大勢が厳しい顔でたった一人の無力な朝鮮人を縛り上げなおも棒等を振りかざしなぶり殺そうとしている緊迫感に、ギャップがあるだけに、禍々しさが否応なく迫る。

90年後の2013年、著者は、東京新大久保で「韓国人をたたきだせ」「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」といったプラカードを掲げるデモへの抗議活動に参加していた。90年前に東京の路上で響いていた「殺せ」という叫びと共通していることに気づき、ぞっとする。そして、90年前に虐殺があった東京各地を訪ね、当時の証言や記録をもとに伝えるブログを、9月限定として開設した。本書は、多くの人の反響を読んだブログに加筆し、まとめたものである。

読むに堪えない凄惨な記録に慄く。関東大震災で朝鮮人が虐殺されたことを知っていたが、教科書では1行くらいしか触れられていなかったように思う。これほど広範な地域で、多数の日本人が殺戮行為を行い、多数の朝鮮人が虐殺されたとは、恥ずかしながら知らなかった。横浜で、品川で、神楽坂で、亀戸で、千鳥烏山で、深川で、本郷で、上野公園で、東大島で、船橋で、熊谷で、千葉で、群馬で、栃木で…(まだまだある。地震の被害のほとんどなかった地域にまで虐殺は拡大した)。私が現在住む地域の下宿にいた20歳の朝鮮人の女性は、主人にいちばん奥の部屋に隠してもらえた、という。主人は宿泊人名簿を見せろと言われても応じなかった。下宿の窓から外をうかがったとき、青年たちが「神田で朝鮮人妊婦の腹を刺したら、アボジ、アボジと叫んだ、アボジって何のことだろう」と笑いながら話していたという。私が何気なく日常的に通行する穏やかな街並みで、殺戮が繰り広げられたとは。戦慄を禁じ得ない。

9月1日午前11時58分に地震が起き、午後3時には警視庁が初めて「朝鮮人の放火」流言を確認する。避難民の移動とともに、流言が拡大する。各地に「自警団」がつくられ、自警団、さらには軍も関与する。後に読売新聞を買い取って大新聞に育てた正力松太郎は当時警視庁官房主事という立場にあった。正力が後に述懐したところによると、各地の警察署から上がってきたのは、朝鮮人による「爆弾計画」「井戸への投毒」という報告だった。警官たちは各地でメガホンを取って、朝鮮人暴徒への警戒を叫んでいた。自警団と一緒になって朝鮮人を追いかける巡査もいたという。正力ら幹部は、最初は疑っていたものの、あまりに多くの報告に、次第に流言を信じるに至る。「警視庁として誠に面目なき次第」と後世に書き記すも、一般の人が通常信頼する警察が流言にお墨付きを与えたことで虐殺を広げてしまった責任の大きさに比し、何と軽い言葉であろうか。「現場をみた」という避難民が語る、責任ある立場の警察が通牒を発する、軍隊が「鎮圧」に乗り出す…。相乗効果で、「流言」は再生され強固なものになっていく。「そんなばかな」と笑っていた人が、徐々に信じてしまう記述も随所にある。ネット社会で様々な情報に触れながらも尚一層取捨選択が難しい現在でも、学ぶべきである。

貴重な研究が蓄積されているが、未だに被害の全容は不明であるという。加害者もほとんど多くが何らの責任も問われなかった。衝撃的なのは、千鳥烏山の烏山神社の13本の椎木である。京王電鉄笹塚車庫の修理のために向かっていた朝鮮人労働者17人に「自警団」が襲いかかり、重軽傷を負わせ、1人は死亡した。徳富蘆花が随筆に「烏山神社にたっている13本の椎木は殺された朝鮮の人13人の霊をとむらって地元の人々が植えたものです」と書いているのをみつけ、著者はほっとする。しかし、死亡者は1人と知って、では椎木は何のためかとさらに調べたところ、古老からの聞き取りが書き留められている記事を見つける。すなわち、12人が起訴されたとき、「これは烏山村の不幸ではなく、千歳連合村全体の不幸だとして、12人にあたたかい援助の手をさしのべた。千歳村地域とはこのように郷土愛が強く美しく優しい人々の集合体なのである。私は至上の喜びを禁じ得ない。」「日本刀が、竹槍が、どこの誰がどうしたなど絶対に問うてはならない、すべては未曽有の大震災と行政の不行届と情報の不十分さがおおきく作用したことは厳粛な事実だ」とあり、被告らの苦労をねぎらうために(!)植えられた可能性が濃厚であることを知る。「郷土愛が強く美しく優しい人々」…惨劇のあとでもこのようにたたえ、行為者の「ご苦労」への同情を強調してしまう。このような反省の欠落は、千鳥烏山に限らず、歴史教育でもこの点を深く学ぼうとしてこなかったこの社会全体にいえることだ。

なお、自由主義史観研究会著のベストセラー『新しい教科書が教えない歴史』には、横浜の鶴見警察署長の大川常吉が1000人の群衆を前に「朝鮮人を殺す前にまずこの大川を殺せ」と宣言したことが取り上げられた。著者も、大川署長を尊敬するが、しかし、朝鮮人虐殺という「誇れない歴史」をまず教える必要がある、さらに、虐殺を拒絶した日本人は多く存在するのに、そのなかから警察署長一人を称揚することにも違和感がある、と的確に指摘する。上述した、奥の部屋にかくまった下宿の主人。かくまわれた女性に、それまでとくに親しくなかった近所の女性は、「出ないほうがいい」と缶詰を持ってきてくれたという。朝鮮人職工を守った工場経営者、朝鮮人労働者を守って自らも半殺しの目にあった親方。青山学院の寄宿舎は、70~80人の朝鮮人をかくまった。他の集落から押し寄せて来る自警団を阻止し、自分の村落の朝鮮人を守った自警団。3000人の群衆の前に手を広げて立ちはだかり、「こういうことはいけません」「あなた、井戸に毒を入れたところを見たのですか」と訴えたキリスト教徒の女性。彼らは「日本人の誇り」を背負ってたけりくるった群衆の前にたったのだろうか。「人間の矜持」に支えらえていたのではなかろうかと著者はいう。同感だ。

書店では、ひところよりもおさまったというが今なお嫌韓本ともいうべき本が平積みされている。13年も東京都知事であり続けた石原は、「三国人発言」など差別発言を公然と繰り返した。歴史に学ばなければ、差別のもたらす惨劇の歴史を繰り返しかねない。レイシズムを渦巻く反韓の空気に慄きながら、本書のような本こそ平積みになってほしいと願う。私が手にしている2版は、2014年3月11日に初版が発行されて1か月もしない4月1日に発行されている。本書を手にし、歴史を学びたいという人が多いということに、ほっとする。

(2021年9月4日)