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未知の感染症禍における専門家たち

河合香織著『分水嶺 ドキュメント コロナ対策専門家会議』岩波書店、2021年

 9月3日、分科会は、提言「ワクチン接種が進む中で、日常生活はどのように変わり得るか?」を公表し、尾身茂会長は、「日常生活への制約が長引き、先が見えないことへの不安や不満が高まっていて、感染対策への協力が得られなくなっている。生活を徐々に戻すため、合理的かつ納得感のある感染対策が必要で、提言をたたき台として国民的な議論をしてほしい」と訴えました。
 他方で、菅首相は、「これで最後」と言いながら緊急事態宣言を繰りかえし、野党が議院運営委員会へ出席を求めても、再発出のたび西村大臣に答弁席に立たせ続け、自分の言葉でなぜこのような事態になったのかを説明しようとしませんでした。挙げ句の果てに、デルタ株が猛威をふるう8月25日、「明かりははっきりと見え始めている」と述べ不興を買い、9月3日には、「新型コロナ対策に専念したい」として、党総裁選に出馬しないと唐突に表明しました。危機のさなかにリーダーシップを発揮したいからリーダーから降りる…?理解できません。

 リーダーとは、危機にあったときに前面に立って、言葉をつくして困難を伝え、協力を求める存在のはずです。前面に立つことを恐れ、エビデンス、根拠なしに「安心・安全」を繰りかえすのみの菅首相。官僚を人事で支配し、忖度と萎縮を蔓延させた政治では、危機にあって情報を集め分析することもかなわなくなったのではないでしょうか。
 感染症禍での政治の混迷ぶりに、「それみたことか」と冷笑してはいられません。人々のいのち、健康、暮らしがかかっているからです。「批判ばかり」と言われがちな野党ですが、検証、批判もしなければなりません。そして、政権を握っていない立場からも、間接的にいのち、健康、暮らしを支える政治になんとか軌道修正するよう、政府の後押しもしなくてはなりません。「今は有事なのだから批判ばかりではだめだ」「もっとビシビシ追及を」。どちらも大切です。そして難しい。

 専門家たちの役割と、野党議員の役割は全く異なるのですが、本著を読みながら、「危機にあって直接リードできないながら少しでも良い方向に進めたい」ともがくありさまに、「わかる!わかる!」と何度もうなずきました。
 専門家たちは、政策の「評価」を安直にアピールしたがる政治家たちに、ファクトがないのにそんなことはできないと抵抗します。素早く動かねばいけない局面でも、段取り等を重んじる官僚にも立ちはだかられます。
 官僚は、政権に忖度するだけではなく、国民にどう受け止められるかを気にします。だからこそ、官僚は無謬性(誤りはない)に縛られる。もっとも、官僚たちは、専門家の論理を理解し、協同しなければいけないと奮闘もします。専門家の論理を理解しようとせずリスクを認めたがらない政治家と専門家の橋渡し役に多大な苦労をしています(その点も、本著は公平に描いています)。
 誤りを認めたがらない政治家や官僚と、未知の感染症を前にエビデンスが足りなくてもそのときそのときの知見で判断し修正していくしかないという専門家たちは、相容れません。相容れないのですが、専門家たちが政府の助言組織として発信していくには、そんな官僚や政治家たちとすりあわせしながら進んでいくしかないのです(しつこいようですが、わかる!その苦労、切なさ)。

 そういえば、6月4日、田村憲久厚生労働大臣が、尾身会長ら分科会の有志が諮問されないままにオリパラ開催について示すとした提言について、「自主的な研究の成果の発表」と突き放す発言をしましたが(後に批判を受け「参考となるものは取り入れさせていただく」と修正)、専門家たちが政府の意向に沿わなければ簡単に突き放されることが浮き彫りになりました。

 政府の意向に沿ってもいられない、サイエンスに身を置きながらも、しかし、政府の助言機関としてでなくては発信力が弱くなり、人々の行動変容にはつながらない、ジレンマ。本著に登場する、分科会の前身のコロナ対策専門家会議の面々が直面したジレンマでもあります。

 専門家がリスク評価をし、それを踏まえて政治家が判断し説明責任を果たす。これが本来のあり方です。専門家たちはリスク評価をする。そのリスク評価を踏まえて、判断し、説明責任を果たすのが、政治家。しかし、国のリーダたる政治家が、リスク評価を踏まえないで、国民へリスクを踏まえたメッセージを出すことをなんとか回避しようとするばかり。それでは危機と伝わりません。文書の細部に至るまで攻防があります。通るようにと折れるところもあれば、粘って押し通すところもある。専門家たちはときに「忖度・御用」と誹られ、ときに「暴走」と誹られもしました。誹った人たちも、こうした苦労の実情がわかれば、尊敬の念を覚えるはずです。こんな消耗する神経戦から撤退し、アカデミズム他それぞれのフィールドにこもっているほうが、よほど楽なのですから。それも、ネット環境から何から劣悪(Wi-Fiも自前など!)な状態で、しかし矢面に立たされるのを嫌う政治家の代わりに前に立てば、批判、非難を受けたのです。7月21日に、尾身会長が理事長を務める独立行政法人のガラス扉が割られましたが、その後逮捕された被疑者は「尾身会長が嫌いだからやった」と供述した報道されています(8月12日00時16分東京新聞(共同))。
 他にも、専門家会議のメンバーは、過労で倒れ入院したり、訴訟提起されたり、とてつもない苦労をなさっています。どう考えても割に合わない苦労を背負いながらこの仕事を引き受けるのはなぜでしょう。何が彼ら彼女らを駆りたてるのでしょうか。

 「他人からの評価より大切な事があります。自分の限りある人生で、みんなが何かその人がやるべきことをします。たまたま私はこういう仕事に就いて、微々たる力だと思うが、自分でできることをやってきた」。本著(207頁)にある、尾身会長の言葉に、打たれます。
 「局所の最適は、必ずしも全体の最適を保証しない」「人に勝とうとしない。全体が結果として前進することが大切だと思っている」という尾身会長のお考え(207頁、208頁)も噛みしめます。つい、弁護士としても、野党議員としても、論破したいという気持ちも生じがちですが、全体が結果として前進することが大切、大切、と念じていきたいです。

 私は、本著を読んだ後の6月3日、参院厚労委員会で、尾身会長に質疑する機会を頂きました。「パンデミックの中で五輪開催は普通でない」(6月3日15時22分NHK)、
 「途上国へウイルス渡る可能性」(6月3日17時18分毎日新聞)等の発言は大きく報じられ、自民幹部が「ちょっと言葉が過ぎる。尾身会長はそれを決める立場にない」と不快感をにじませた等と報じられました(6月3日20時26分朝日新聞)。しかし、尾身会長も決める立場にないことは承知していらっしゃる。それまで、野党側からも、尾身会長に開催の可否について追及するかのような質問が重ねられていましたが、尾身会長は決める立場にない、専門家はリスク評価をする立場だとメッセージを発し続けていらっしゃいました。本著を読んで、尾身会長らが、危機にある専門家とて歴史的使命を果たそうとされていると信頼した私は、リスク評価を諮られたら行っていただけるかを質問しました。尾身会長は「感染のリスクや医療ひっぱくへの影響について評価するのは、プロフェッショナルとしての責任だ」と明言してくださいました(動画はこちら、6月13日14時00分朝日新聞)。

 連載を本著にまとめるにあたり、著者には、尾身氏から、「時の経過に耐える作品が残ることを期待しています」と返事があったとのことです(216頁)。僭越ですが、私も、歴史に恥じない仕事をしていきたいです。

(2021年9月6日)