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第2回

vol.11_私の街に来てくれたアーティストを応援したい,打越、聴きにいく五十嵐奈穂子さん_「KYAF」呼びかけ人vol.11_私の街に来てくれたアーティストを応援したい,打越、聴きにいく

気負わず自然体でアーティストと交流し、「やってみちゃえ」とさまざまな活動を楽しむ五十嵐さん。
この姿勢はどのように育まれたのでしょう。
十代のころ訪れた、その後の人生を決めた出会いとは――。

新潟のデパートで美術に触れる

打越子どもの頃からアートが好きだったんですか。

五十嵐私の母は街が大好きな人で、子どもの時よくデパートに連れていかれたんです。百貨店の美術展が充実していた時代ですね。シャガール展とか。新潟のデパートでいろいろな美術に触れられました。

打越へえ。

五十嵐母は物怖じしなくて画廊にもどんどん入っちゃう。ぜんぜん買わないのに、タダで見られる美術館みたいに思って。だから私もそういう場所には慣れてました。

打越ご出身はどちらですか。

五十嵐 生まれたのは新発田です。小学校入ってすぐ新潟市に出てきました。父は新発田の山のふもとの長男で、母は村上の商店街育ち。同じ新潟でも文化が違う。それで母は「離婚したい」と、私と弟をつれて新潟市のアパートに移ったんです。

打越そうなんですか。

五十嵐そしたら父が「離婚しない」と新潟市に来て、結局そのまま家族4人アパート住まいを続けました(笑)。

五十嵐さんと打越。

中学校では手作り部に入る

打越部活は何をしていましたか。

五十嵐運動や団体行動は苦手で、手を動かすのが好きでした。小学校では園芸委員でした。中学校では「1回ちゃんと明るくなってみようか」とテニス部の仮入部に行ったら、2チームに分かれてリレーするというので「たたかいじゃん!」(笑)。心折れたところに家庭科室で「手作り部」が活動していると知って。

打越ふんふん。

五十嵐ペーパーフラワー、織物、草木染、ニット……「ここだな、私の居場所は」。いまも手作り部仲間とはつきあいが続いてます。

打越何人ぐらいの部活なのかしら。

五十嵐3学年で10人程度。土曜日は調理実習で、がんもどきを作ったり。

打越渋いですね。 

打越さく良。

学校をサボって美術館へ

打越高校でも手作りを?

五十嵐高校でがんばったのは図書館の本を読むことです。特に海外文学、フランソワーズ・サガンやエーリッヒ・ケストナーなどを。
学校は親にすすめられて入った公立の女子高で、皆真面目でちゃんとしてるんで、どうもあわなくて。部活もやらないで、学校サボって美術館に行ったりしてました。友だちはいたんですけど。

でも高校で何もしてないから、図書館の貸出カードに自分の名前を残していこうと思いたって、高校3年の時は年間100冊読みました。仲が悪いうちの両親ですが、共通の趣味が読書で家に本がたくさんあり、私も読書は好きだったんです。

打越なるほど。

五十嵐高校生の時は、古町のお店屋さん巡りもしましたね。ロンドンやパリにあこがれて「雑貨屋さんになろう」と思いました。

打越おお。

五十嵐だから専門学校の店舗ディスプレイ科に行くつもりだったのに、親は大学か短大に行ってほしいと言う。結局、新潟県立女子短期大学、いまの県立大学の前身に行きました。でも希望しない学校に行ったので勉強に身が入らない。それで短大時代はシネ・ウインドの活動に打ちこみました。

打越1985年からある、市民が運営するミニシアター系映画館ですね。

市民映画館シネ・ウインドで出会った面白い大人たち

五十嵐中学生の頃にシネ・ウィンドの看板を見て「私があこがれてる世界の映画をやっている!」と興味を持ったんです。高校の時は映画を見に行ってました。ヌーヴェルヴァーグ特集とか。短大に入った6月にルイ・マル特集があって『地下鉄のザジ』や『死刑台のエレベーター』を見ました。その時に、この映画館は会員たちが運営しているんだと聞いて、入会しました。

打越それからずっと会員なんですね。

五十嵐はい、18歳から。ここで人とつながりが増え、面白そうな大人がいっぱいいることを知りました。
短大のゼミは哲学の先生で、卒業研究は何をやってもいいと言ってくださったので、「シネ・ウインドで映画上映を企画する」を卒論にしました。

打越何でもいいよと言ってくれる先生がいてよかったですね。

五十嵐 ええ。その時上映したのは『夏の庭』という作品でした。原作は湯本香樹美さんの児童文学です。

すべてはウインドで始まったんですよね。面白い大人たちを見て「自分もそうしよう」と思えた。短大まで親の言うことを聞いておきまりのコースを来たけれど、もっと自由でいいんだ、と。

五十嵐奈穂子さん_。

あこがれの雑貨屋さんに体当たりで就職

打越短大を出てからは、どうされたんですか。

五十嵐新潟を出たいという欲はなく、1年生の時から行きたい会社が決まっていました。当時けやき通りにあった「クロワッサンの店」です。マガジンハウスの雑誌から生まれたフランチャイズの雑貨店で、そこが出している手描きの新聞も好きでした。

打越自分が好きな世界。すんなり入れましたか。

五十嵐1年生の夏休みにふらっと行って「ここのお店で働きたいと思っています。なにか人が必要な時は、お給料いらないので声かけてください」と言いました。そしたらイベント前に電話がかかってきて。

打越やったー。

五十嵐イベントをお手伝いした時に「このお店に将来勤めたいんですよ」と話して「じゃ、こんど履歴書持ってくれば」と言ってくれたのが社長だったんですよ。

打越周囲にそんな就職活動した人いないですよね。

五十嵐いないです(笑)。

オブジェ。

ものを売りながら消費社会がつらくなる

五十嵐「クロワッサンの店」には5年近くいました。働く前は「学校をサボっていた自分が、会社はサボらないで行けるんだろうか」と思ってましたが、仕事は楽しかった。風通しのいい会社で、自分の企画もやらせてもらえたし。ところが、だんだんものを売るのが苦手になってきたんです。

打越えっ。お話しするのが得意そうだけど。

五十嵐人に興味があるからお話しするのは好きです。手作りするお客さんも多くて、話があう。だから皆さん、勧めると買ってくださる。それで逆に「皆さんモノ持ってるのに、いらんよな」って、変な気分になってきちゃって。

打越売るお仕事なのに「もういらないんじゃないか」。

五十嵐月に2回新商品が入って来て、売らなきゃならない。二十代で消費社会がつらくなってしまった。

打越それでどうしたんですか。

五十嵐好きなことを仕事にするのは難しい、と思いました。若いから公私いろいろあり、会社の方針も変わり、つらくて会社に行けなくなってきた。駅まで行くんだけど電車に乗れない。

打越うーん。

五十嵐あとになってみれば、うつだったかな、という感じ。

打越お医者さんに行きましたか。

五十嵐そんな時代じゃなかったので。それから職業訓練でパソコンを学び、不動産会社の事務を3年やりました。最初があんまり自由な会社だったので、普通の会社はしんどかったです。体調も悪くなって結婚する頃にやめました。でも事務ができるようになったのはよかったですね。

絵画がある廊下。家のあちこちに作品がある。

(つづきます)→第3回へ

明後日朝顔プロジェクトのポスターを持つ五十嵐さん。

五十嵐奈穂子(いがらし・なおこ) 1974年新潟県新発田市生まれ。新潟市在住。新潟県立女子短期大学国際教養学部在学中に市民映画館「シネ・ウインド」の会員になる。以来「にいがた映画塾」「明後日朝顔プロジェクト」などさまざまな活動に関わり、2020年にアーティスト支援をする「KYAF(きゃふ)」を立ち上げた。最近は車の移動中に『モモ』『星の王子さま』などオーディオブックを楽しんでいる。