傷口が開くとしても対話すること
1月25日、アメリカ映画『対峙』を試写会で観賞しました。
学校で起きた銃乱射事件の6年後。被害者の両親と加害者の両親が顔を合わせ、丁重に、ぎこちなく言葉を交わし始めます。全編ほぼ4人の会話で、徐々に緊張が高まります。
観ている私は、どちらの側にも身を重ね、いたたまれない思いでした。胸が締めつけられ、観終わったときには正直ぐったりと疲れます。
それでも多くの人に観ていただきたいです。
社会が放置してはいけないのに放置している課題が、ここにあるからです。
セラピストの勧めでこの対話が実現したという設定でしたが、ファシリテーターも同席せず4人が対面し話し始めたことに、この先どうなるのかと心配になりました。
私は弁護士として、被害者加害者双方を直接対面させることはほとんどありませんでした。法の手続きに乗っ取って一定の解決に導くことにこそ一定の解決になると考えていたのです。
刑事事件手続では、当事者ではない被害者が蚊帳の外に置かれ、やり場のない悲しみに耐え続けてきたと言われてきました。そのため、被害者参加の手続や情報開示の制度も整えられてきました。
それでも、なお「知りたいことはそれではない」という不全感が残されている方もいるかもしれません。この映画の被害者側の両親がセラピストに勧められたように、「加害者側と対話してみよう」という方もいらっしゃるかもしれません。しかしそのような時に日本には支援の場がないことにハッとさせられました。
加害者側の家族もまた、大変苛酷な状況で苦しんでいるけれども、その思いを表明する機会がさらにないことでしょう。
双方孤立したままで置かれています。
刑事事件の経験は少ないのですが、DV事件はよく担当しました。
DVを振るわれた私の依頼者たちは「加害者と二度と同じ空間にいたくない。恐ろしい」という方がほとんどでしたが、中には「直接加害者本人と会いたい」という方もいました。とおりいっぺんの謝罪条項や謝罪文では納得できない、と言うのです。
しかし、和解の席上でやり取りを始めると結局余計ストレスになることもあり、勧められませんでした。実際、激しい言い争いが再燃することすらありました。
でも、当事者が望むことを「当事者が傷つくに違いないから」と妨げるのはパターナリスティックだったかもしれず、もっと丁寧に準備すれば違ったのかもしれません。
刑罰や賠償金で決着するわけではありません。この4人のように、喪失感は癒やされず、傷口が疼き、納得できなくても、出会って対話すること自体が当事者にとって意味を持つのかもしれない。そう気づかされる映画でした。
試写会後のトークショーにドキュメンタリー映画監督の坂上香さんが登場しました。彼女は古い友人で、その作品にはいつも心揺さぶられます。著書『プリズン・サークル』も、涙をこぼしながら頁をくりました。
舞台は官民協働型の刑務所「島根あさひ社会復帰センター」です。「日本の刑務所の最も大きな特徴は沈黙」と人権団体ヒューマンライツウオッチに指摘されるとおり、沈黙がおおう日本の刑務所。しかし島根あさひ社会復帰センターでは、受刑者たちが自分の経験を語り、他者の経験に耳を傾ける、回復共同体(TC)という取り組みが行われています。
互いの名を「さん」付で呼び、相手を否定しない。当初は「寂しさ」「怖さ」という感覚がわからなかった参加者が、語り、聞くことで、封印してきた虐待の記憶を思い起こす。虐待やいじめをサバイバルするため感覚を麻痺させてきた受刑者が、感情を取り戻していく。そしてようやく、自分の罪の重みにも向き合っていきます。
こちらの修了生の再入所率は、その他の受刑者の半分以下といいます。再犯防止に資するということは、新たな被害者をうまないことでもあり、一刑務所にとどめるのではなく、大いに参考にしたいところです。
本書からは日本の法制度について多数の課題が見えてきます。
一つだけ挙げれば、父親に半殺しの目にあわされ、あげくに棄てられた服役者が、仮釈放のためにその父親を帰住先にせざるを得ないというくだり。心が重くなります。
これだけ虐待で大変な経験をしてきた服役者が、せっかく仮釈放となっても問題のある家族を頼らざるを得ない、家族主義。
再犯防止のためには何が必要か、考えられているようには思えません。
大切に繰り返し読み込み、刑務所というものを一人ひとりが真に罪と向き合うような制度に改めていきたいと思います。
昨年、「犯罪により傷ついた全ての人への支援」に取り組むInter7が誕生しました。支援を目指す方々に感謝と敬意を表します。そして政治こそ取り組まねばいけないと気を引き締めます。
(2023年2月1日)