第1回
その時驚いたのが、選挙を支えてくださる人の多さと、その獅子奮迅ぶりでした。
当選後「大場さんという人が2区の幹事を引き受けてくださった」と聞きました。
その後お会いしてたくさんの写真を見せていただき、大場さんが田中角栄氏を応援していたこと、
そして約50年、国政選挙の応援を続けていることを知りました。
その人がどうして打越を支援してくださるのか、何が長年の活動を支えるのか、伺いたい—。
「俺みたいな学のない者じゃなくて、もっと偉い先生の話を聴けよ」と当初は渋った大場さん。
かさねてのお願いでインタビューに応じてくださいました。
父をなくし中学を卒業して越後交通に就職
打越大場さんはここの生まれですか。
大場いや出身は隣の広神村で実家は農業。妻がここの一人娘で、俺が養子に入ったの。
打越いつごろ?
大場昭和58(1983)年かな。
打越こちらは衣料品店をされているんですね。
大場店は女房がしよる。俺は勤めがあったから。
打越越後交通に勤めたのはいつですか。
大場昭和40(1965)年。俺は名前の通り三番目。兄がいて姉がいて俺が一番下。俺が中1、姉さんが中3の時に父親が亡くなったんだよ。
打越そうだったんですね。
大場兄貴はコメ農家を継いで農協職員もしていたけど、給料が安かったから建設関係の会社に移った。俺も姉も中学卒業と同時に勤めに出た。その時に田中角栄先生がオーナーの越後交通に入ったがの。昭和40年4月1日。
打越なるほど。
交通公共ひとすじ51年
打越就職たいへんでした?
大場男女合計で八十何人採用になった。ガイドと整備士と事務職と運転士職。俺は運転士希望だったけど、まだ15歳で免許取れないから18歳までは路線バスで切符切りの車掌をやってたの。
打越 ああ、そうですか。
大場入って7年したら、人事異動で長岡行ってくれと言われた。「いつごろ小出に戻れるかな」と聞いたら「十年くらいだめだ」と言われて。
打越地元の小出に居続けたかったんですか。
大場そう。それで地元の小出タクシーに移った。そこで20年勤めたら、越後交通に南越後観光バスという子会社ができた。そこは転勤がないというので、42歳でまたバス運転手。66歳の定年まで。バスとタクシーあわせて51年、公共交通ひとすじやの。
街宣車は事前に予行演習する
打越大場さんは田中角栄さんが現役だった当時から選挙の応援をされていたんですか。
大場一番最後の選挙、ロッキード事件で有罪判決が出たあと、22万票とったでしょ。
打越有名な1983年の。
大場あの時は街宣車乗ってた。街宣コースの設定とか。越後交通いたから。
打越先導する役?
大場それも含めて街宣担当。
打越はじめての選挙でも先導? 大変でしたね。
大場 いや車掌してたから。職業柄わかる。この道行けば近いとか。
打越なるほどね。
大場効率よく回るためにはどう行けばいいか。実際、どれくらいかかるか2、3人で回ってみる。本番の前に。
打越本番の前に回るんですか!
大場それしないで、図面だけだと実際と誤差が出るさ。本当に1時間で回れるかとか。
打越角栄さんを乗せる車も担当したんですか。
大場いや、それはまた別。選対のメンバーでコース作り。できあがったら回ってみる。
打越それは選挙期間中?
大場選挙の日程が決まってからのことやの。告示になる前にいちど回っておく。
田中角栄氏に強さとやさしさを感じていた
打越田中先生は当時ものすごい票とったわけじゃないですか。
大場うんうん。
打越肌感覚的に、盛り上がってる感じはしましたか。ロッキード事件のあとの選挙。
大場そうそう。越山会員はその前よりもみんな一生懸命だった。
打越ロッキード事件で有罪が出た。でも応援しようと思ったのはどうしてですか。「田中先生が大変な目にあってる」って感じだったんでしょうか。
大場それはほら、アメリカからターゲットにされたんだと。作られた事件で先生があげられたという感覚でいた人か多かったことやの。だから有罪でも関係ない。
打越田中先生のことを皆がそんなに信頼できたっていうのは、なんだったんでしょう。
大場やっぱり街頭演説でも個人演説会でも、聞く人を惹きつける。感動する演説。人間性と言うかさ。
打越ふーん。
大場強さとやさしさがあふれ出る。それを感じとってる人が多かった。
打越強さというのはどんな。
大場頼まれて受けたことは必ずやってくれる人。できないことはできないと言うし、できることはできるし。なんでもかんでもできるなんて言わねえ。
打越やさしさは?
大場選挙の時でも、どんな人にもちゃんと「いつも大変だな。ありがとう」と。組織の中でいちばん下の人にも、気遣いがある。人間味、やさしさというか。まあ、ああいう政治家は二度と現れんと思うけど。
どこの党でもやっぱり人で選んでいる
打越ふーむ。でも二度と現れなくても、一時期離れたりしながらも、大場さんは選挙の応援にずっと関わってらっしゃるじゃないですか。それはなんででしょう。
大場要するに何党であっても やっぱり人で選ぶという感じ。
打越会社勤務しながら、選挙となれば選挙の応援してたんですか。
大場そうそう。越山会が解散したあと、越山会員だった小千谷市長の星野行男さんが「私が出ます」と手を上げた。
打越はい。
大場その頃は自民党の代議士がいっぱいいた。桜井新、渡辺秀央、村山達雄。ほら、新潟3区の定数は5人だから。
打越当時は中選挙区制だったからですね。大勢いるなかでどうして星野さんに。
大場タイプが合うなと思ったんですよ。直感的に。
打越どんなタイプ?
大場あの人は偉ぶらないというか。丁寧でやさしい。
打越ふうん。
大場桜井新先生は地元小出町出身で、多くの人はそっちに行った。星野さんのとこに行ったのは一部だった。それが平成2(1990)年かな。
自民から革新になっても違和感はとくにない
打越田中角栄先生の応援からスタートして紆余曲折あり、いま立憲民主党で幹事を務めてくださっています。大場さんはこの地域で自民党から革新に移ったわけじゃないですか。ハードルはありませんでしたか。
大場いや、違和感は感じなかったな。
打越 田中角栄さんを応援していた方々も分かれたわけですよね。人間関係が複雑になったりしませんか。
大場いや、旧知の仲だから(笑)。この地区で、こっちはいま立憲民主党になって、越山会で昔一緒にやった仲間が自民党の幹部になってる 。会えば「ようよう」言うて、いまも言葉はかわすし。野党側に来たこっちの方が少ないから、 自民党の役員側はこっちをよく知ってるわけ。今回の参議院選挙だって俺は自民党の小林一大の街頭演説も聴きに行ってみた。「どんなかな」って。
打越そうですか。
人の上に時は流れて
大場選対では、こっちは野党で共闘してる、社民と共産と。
打越それなんですが、前は自民党だったのに、いまでは社民党や共産党の人とも地域で協力してるわけじゃないですか。以前は戦う相手だったのに、いまは仲良くやっている。それは別に不思議じゃないんですか。
大場うーん、別に。今の自民党の幹部も、俺よか年下が多いから。
打越はい。
大場越山会青年部だった人は、俺もそうだけど70歳越えてる。いまの自民党の幹部の人は60代、俺よか若い。逆にこっちのほうがその人らに知られてる。
打越じゃ「お疲れさまです」なんて言われたり。
大場そう。俺よか上の人、80代の、越山会の幹部でばんばんやってた人がいま、動けなくなったり亡くなったりさ。(集合写真を指して)あんなかで俺がいちばん年若いがんの。半分以上お亡くなりになった。
打越そっかー。選挙のどっち側とか、もうそういうことじゃなくなってるんですね。
大場うん。
(つづきます)→第2回へ
大場三郎(おおば・さぶろう)
1950年、新潟県北魚沼郡広神村(現・魚沼市)生まれ。中学を卒業後、越後交通に入社。タクシー、バスの運転手として66歳まで勤める。その傍ら、田中角栄氏を応援する越山会をふり出しに、さまざまなな選挙で活動をする。2019年、立憲民主党に入党、打越さく良の第2総支部で幹事を担う。趣味の水泳ではマスターズ大会でたびたび上位入賞。携帯の着メロは「川の流れのように」。