うろ覚え自分史
- 1968年(0歳)
- 1月6日、北海道旭川市に生まれる。三人姉妹の末っ子。父は会社員、母は主婦。
生後3カ月の時に埼玉県浦和市(現さいたま市)へ引っ越す。父の仕事は転勤が多かった。 - 1971年(3歳)
- 北海道苫小牧市に引っ越す。
- 1974年(6歳)
- 苫小牧市立勇払小学校入学。ひらがなも読めない状態で入学したため勉強はすべてが新鮮。「ぬ」「む」が難しい、と黒板を見つめた記憶あり。アニメ『アルプスの少女ハイジ』がお気に入り。
秋は虫取り網を持ってむやみに駆けまわり、大量の赤とんぼをとるのが日課でした。 - 1975年(7歳)
- 反対咬合(受け口)の矯正を歯科医にすすめられるが、その費用を聞いて自力で治す。クラスで「ねばりっこ賞」をいただけた。才能は特になくても粘り強さでいける、と長年心の支えに。
- 1977年(9歳)
- またも引っ越し。浦和(現さいたま)市立上木崎小学校に転校。
小学校4年生ぐらいの時、小学校の廊下に掲示してあった写真ニュースでアフリカ難民の記事を読み、衝撃を受ける。「こんなことがあってはならない。こんな悲劇の起きない社会をつくるために働きたい」と強く思う。
同時期、俳優・鶴田浩二のファンになる。
歴史小説を読みふけったのは小学校高学年の頃である。
司馬遼太郎『項羽と劉邦』、吉川英治『三国志』……どっぷりはまりました。
- 1980年(12歳)
- 浦和(現さいたま)市立大原中学校入学。突然ガリ勉になる。
同時に、リバイバルブームだったアメリカのポップバンド、モンキーズのファンになる。来日メンバーが出演したテレビ東京『おはようスタジオ』の観覧に当選。デビューしたばかりのとんねるずから握手を求められた。
当時、友達には「うちこ」と呼ばれていた。 - 1983年(15歳)
- 東京都のお茶の水女子大学附属高等学校入学。
自主自立を旨とする女子高で、個性的な同級生たちと楽しく過ごす。
イギリスのロックバンド、デュラン・デュランのファンになる。
黒ぶちメガネに生真面目ショートカットの典型的優等生スタイルを貫きつつ愛読誌は『オリーブ』。
友達には「さくら」と呼ばれていた。 - 1986年(18歳)
- 東京大学教養学部入学(文科三類)。
人の役に立ちたいと点字サークルに入るが、不器用で作業が進まず、申し訳ない気持ちで遠ざかる。
インドシナ難民の問題に関心を持ち、ボランティア団体「幼い難民を考える会」に参加。
勉強を教えに行った先で寝不足で倒れカンボジア難民の女性に介抱してもらうなど熱意は空回り気味だったが、貴重な出会いと経験を得る。
大学での専攻はアジア地域研究。卒論で難民の子どもたちについて調査するうち、教育学を志す。
きびしい状況にある子どもや女性など、足もとの問題に目を向けなければという思いがわいてきました。
- 1990年(22歳)
- 東京大学教養学部卒業。東京大学教育学部に学士入学。
長々と在籍した大学では専門分野の他に、池内紀先生、柴田元幸先生、蓮實重彦先生など文学の授業が楽しかった。落語家のような所作で講義する延広真治先生も印象的だった。
ヨーロッパ一人旅でニュルンベルクなどを訪れる。チェコとイタリアでパスポートと財布を落としたが、二度ともちゃんと返ってきた。 - 1991年(23歳)
- 国連かどこかで働こうと、休学してアメリカに留学。ワシントンD.C.のアメリカン大学で平和学を学ぶ。毎日必死で課題に取り組むも、おなかが痛くて診察を受けたところ卵巣嚢腫が判明。手術のため留学半年で帰国を余儀なくされる。手術後アメリカに戻るつもりだったが、結局断念した。東京大学教育学部に復学。
アメリカ文学の柴田先生のゼミに飄々としたすごく頭のいい人がいて感心していたら、ミュージシャンの小沢健二さんだったことに、あとで気づきました。 - 1993年(25歳)
- 就職活動をしてみるが方向性が定まらず、東京大学大学院教育学研究科(修士課程)へ。
指導教授は佐藤学先生。論文テーマは女性の成長過程における葛藤。
東大に赴任したばかりだった上野千鶴子先生のゼミにも参加した。
この頃、落合恵子さんが主宰するクレヨンハウスの雑誌『子ども論』編集部でアルバイトをする。子どもの「今」を熱く取材する方々に刺激を受けた。
翻訳の通信講座を受講したり、趣味を持とうと日本ウクレレスクールに通ったりしたのもたぶんこの時期。 - 1996年(28歳)
- 修士課程を修了。博士課程へ。周囲は熱心に研究に取り組む研究者の卵たち。しかしそうはなれない自分に違和感がふくらむ。
ここでようやく『自分は学問に向かない。人が抱える問題に直接携わりたいんだ』と悟ったわけです。遅い!
「困難を抱える人の役に立ちたい」という原点に戻り、弁護士を目指すことを決意する。
- 1997年(29歳)
- 司法試験予備校の伊藤塾に通う。これが生まれて初めての塾通い。やみくもに勉強する。
- 1998年(30歳)
- 二度目の挑戦で司法試験に合格。博士課程を中退。
- 1999年(31歳)
- 司法修習生53期の研修で、埼玉県浦和市内(現さいたま市内)の法律事務所に配属される。当時から刑事事件専門の弁護士であった村木一郎との交際が始まる。
司法修習生のイベントで参議院議員の福島瑞穂氏を呼び、選択的夫婦別姓などの話を聞く。
「検察官任官における『女性枠』を考える53期修習生の会」の一員として運動する。 - 2000年(32歳)
- 6月、村木一郎と結婚。北浦和の小さな洋食店で、身内だけの結婚パーティーを開く。
10月、弁護士登録(第二東京弁護士会)。東京都の桜丘法律事務所に入所する。以後、刑事事件、少年事件、外国人事件、破産、離婚などさまざまな案件を担当。 - 2001年(33歳)
- 大みそかに男児出産。卵巣嚢腫の手術をした時、子どもはまず無理だろうと医師から言われていたので、妊娠はうれしい驚きだった。
臨月に牛久の入管にひやひや面会に行った。 - 2002年(34歳)
- 都市型公設事務所東京フロンティア基金法律事務所に入所。時短ながら、仕事と子育てと両立する困難を実感。
- 2003年(35歳)
- いずみ橋法律事務所入所。ここで難民や外国人の事件を多く経験した。
在日ビルマ人難民申請弁護団の一人としていくつかの案件を担当、勝訴も得る。
DV、養育費などの件でフィリピン人女性たちのサポートも続けた。
- 2008年(40歳)
- さかきばら法律事務所入所。
離婚・DV事件の専門性を高めたくて、家事事件を熱心にやっている榊原富士子先生のところに移らせていただきました。
ここで離婚、DV、児童虐待など多くの家事事件に取り組む。同時に、児童相談所の嘱託弁護士、日弁連での両性の平等委員会委員、家事法制委員会委員などさまざまな任務に就く。日弁連の民事法律扶助関係の嘱託も経験。 - 2011年(43歳)
- 2月 第一次夫婦別姓訴訟弁護団事務局長になる(2015年まで)。
すぐに夫婦同姓か別姓か選べる社会になるだろうと思っていたら、通らない。びっくりして、2009年ごろから国会議員に会うようになりました。黙って待っていても実現しないんだな、と。 - 2012年(44歳)
- 『Q&A DV事件の実務』(日本加除出版)刊行(2015年改訂版、2018年三訂版)。
- 2015年(47歳)
- 公立中学校のPTA会長を務める。後に区立中学PTA連合会のOGでもある松下純子区議の選挙応援に参加。
PTAのおかげで地域の皆さんと知り合えました。私は仕事人間なので、子どもを通じて人間らしい生活につながれてきた感じです。
レンアイ、基本のキ—好きになったらなんでもOK?』(岩波ジュニア新書)刊行。 - 2016年(48歳)
- 『なぜ妻は突然、離婚を切り出すのか』(祥伝社新書)刊行。
40代、あちこちにブックレビューを投稿していたら、書評依頼が増え、後に岩波ジュニア新書『答えは本の中に隠れている』中の「意識高い系ですが、何か?」で子ども時代に好きだった本を紹介でき、嬉しかったです。 - 2018年(50歳)
- 『司法の現場で働きたい!—弁護士・検察官・裁判官』(佐藤倫子と共著 岩波ジュニア新書)、『右派はなぜ家族に介入したがるのか—憲法24条と9条』(大月書店 中里見博、能川元一らと共著)刊行。
医学部入試における女性差別対策弁護団の共同代表を角田由紀子氏とともに務める。
ヘイトスピーチ被害者側の弁護団などにも加わる。 - 2019年(51歳)
- 参議院選挙新潟選挙区から野党統一候補で出馬。
6月 新潟県弁護士会に登録替え。
7月、初当選。