第1回
そんな贅沢のできる場所が、上越市高田の「高田世界館」です。上野迪音(みちなり)さんは、町家のたたずまいが趣深いこのまちで育ち、首都圏の大学で映画論を学んだのち、26歳で高田世界館の支配人になりました。
以来、日本最古級の現役映画館から映画文化と<まちづくり>を発信しています。今なおコロナ禍という試練にさらされている、この小さな文化施設から見てきたものを伺います。
映画より好きだったロック
子どものころから上越市高田にお住まいだったのですか。
上野そうです。親の仕事の関係で新潟市と上越市を行き来はしていたんですが、メインはこちらでした。
—高校生の頃から映画好きで、映画の勉強をしようと思っていたんですか。
上野いえ全然。芸術全般、どちらかというと音楽に興味がありました。ロックを中心に洋楽いろいろ触れてきて、大学生になると民族音楽を聴いたり。高田世界館でも音楽公演をよくやるのですが、十代の頃に関心を広げて肥やしを作ってきたことは、よかったなと思いますね。
モラトリアムで吸収したもの
進学したのは横浜国立大学。遠いです。
上野高校2年までは「大学なんか行ってやるか!」と思ってました。進学校だったんですが、パンクロックが好きだったので、「大学行くのはパンクじゃない」と(笑)。でも受験シーズンを迎えた時、ふと「1回東京でも行っとくか」と思いたち、関東方面の国立大学で偏差値的にも手が届く人文系、というので横国に入りました。そこで映画のゼミに入ったわけです。
—映画の世界で生きていこうとは思いませんでしたか。
上野そこまででもなかったので。先輩の製作現場を手伝ったりはしましたが。同級生や先輩には映画監督やプロデューサー、映画関連の編集者になった人もいます。僕はまあ、ある種のモラトリアム(笑)。そうしようと思ったわけじゃないんですけど、結果的に浪人含めて大学院まで8年間モラトリアムでした。
—それは私も。29歳まで大学院生という名のモラトリアムで。
上野その時期に吸収したものは、めちゃくちゃ今に生かされています。
地元でまちづくりがしたかった
高田世界館の支配人になったのは、どういうきっかけですか。
上野もともと僕は、卒業後は戻ってまちづくりをやってみたいと思っていました。この仕事についた直接のきっかけは、その前年、高田世界館で映画の自主上映会を行ったことです。『立候補』という政治ドキュメンタリーでした。
それが大成功して、まちづくりに関わる人たちとも知り合い、またここでいろいろやりたいなと思っていたところに、世界館のほうでも常勤のスタッフを求めていた。映画館の歴史と僕の歴史がちょうどかさなったんですね。それで、2014年にここで働き始めました。
ちょうどその年、人件費もまかなえる補助金が出て、1年の期限つきですが採用があったんです。その1年の間にある程度土台が作れたので、今のような毎日上映する映画館になりました。
—世界館を運営しているのは「街なか映画館再生委員会」というNPO法人ですね。
上野はい、2009年に発足した団体です。
老朽化した映画館を市民たちが守る
上野かるく歴史をお話しすると、ここは1911年に芝居小屋「高田座」として開館し、5年後に「世界館」と改称して映画館になりました。その後さまざまに名前を変えて今に至るのですが、1975年から2000年代までは「高田日活」という名の成人映画館だったんです。
—あ、そうなんですか。
上野映画産業がテレビに押されて儲からなくなり、一部はポルノで生き残ろうとする。特に古い映画館は設備投資ができないので、ポルノに行くところが多かった。また、うちは街の中心部から少し外れていますし。
—なるほど。
上野しかしポルノ映画もお客さんを呼べるコンテンツではなくなり、老朽化もあって2009年に廃業します。あわや取り壊し、というところで、この建物を守るためのNPO「街なか映画館再生委員会」を市民が立ち上げたんです。
その時はぼろぼろだったので、NPOの一義的なミッションは建物の修繕でした。イベントに貸したりはしていたのですが、自主事業までは手が回らなかった。映画館としては一度断絶しているので、僕が来てからゼロから少しずつ営業実績を作り、取引先を広げてきた感じです。
コロナ禍で消えた客層
上野さんが支配人になって以来、ミニシアター系の映画上映を軸に、応援上映、マサラ上映、トークショー、コンサート、さらに食イベントなど楽しい企画を立て、映画ファン憧れの地として有名な監督や俳優もたびたび訪れる場所となりました。しかしコロナ禍で大きな影響が。
上野2020年の春は、日本全体がどうしていいかわからなかった。わかりやすくお客さんは減りましたよね。3月はある程度よかったんです。何か賞を取るだろうと『新聞記者』を組んでおいたら、ちょうど日本アカデミー賞をとって。それが4月になったら焼け野原状態、そのうち緊急事態宣言が出て1か月休館し、5月中旬から再開したんですが。
—緊急事態宣言が解除されても、なかなかお客さんは戻ってこないものですか。
上野戻ってきてないです。「客層が入れ替わった」と言う話を東京の映画館さんに聞きました。シニアの方、つまりウイルスに対してリスクの高い方が来なくなった。だから新しいお客さんを呼ばなければならない、と。まあ、いつか来る波ではあったと思いますが。
お客さんの数は、感染の拡大と完全に反比例する形にはなっていません。新潟では、高田も含めそれほど感染は大きく広がらなかった。また感染が広がってる時期でも、企画によってはお客さんが入る瞬間もあったんです。
「応援しよう」で長続きはしない
上野そうした営業努力で局所的なヒットはあり、なんとなく乗り越えられている気もしていたのが、2年たってみると、「あれ、お客さんぜんぜん来なくなってるじゃん!」。常連さんが半減しました。飲食店もそれは感じているんじゃないでしょうか。
—皆でわいわい飲んだりする習慣がなくなってきた。後ろめたい感じがしたり。でも映画は、見ながら飛沫を飛ばすものではないはずだけど。
上野こちらがそう言っても、もうお出かけマインドが冷えている。「映画を観に行く」という習慣が、この2年の間にどんどんなくなったと思います。やはり、なくてはならないものではないんですよね。「行きたいね」「一緒に行く?」みたいな、ふわっとしたものに支えられているもので。気分が上がらないと足を運んでもらえない。
—休館中に、再開後いつでも使える「応援チケット」を企画されましたが、反応はどうでしたか。
上野非常に応援していただきました。クラウドファンディングもやっていただいたり、そういう点では大きな支援をいただきましたね。緊急事態宣言が明けた直後は、いまよりもお客さんが来ていて(笑)。
—「応援してあげなきゃ!」みたいな。
上野そうなんです。その瞬間は盛り上がりました。でも「応援しよう」で2年は続かない。そういう機運はせいぜい2、3カ月ですよね。僕自身、ひいきにしている飲食店を応援しようと何度も足を運んだりしたけれど、忙しくなってくると行けないし。
—うーむ。
(つづきます)→第2回へ
上野迪音(うえの・みちなり)
1987年、新潟県上越市生まれ。高田高校から横浜国立大学教育人間科学部マルチメディア文化専攻へ進み、梅本洋一ゼミで映画論を学ぶ。2014年、日本最古級の映画館・高田世界館の支配人に就任し、映画のセレクト、映写、もぎり、広報、掃除、イベント企画等あらゆる業務をおこなう。2児の父。高校時代はテニス部。