第1回
立憲民主党立ち上げの頃、選挙応援に長岡市に来た枝野幸男さんの演説を横で聞いて感銘を受け、党新潟県連の初代幹事長になった人でもあります。
佐藤さんのこれまでの歩みは、決して順風満帆ではありません。それでもめげず、熱く元気に政治と関わる佐藤さんのライフヒストリーです。
山の集落で畳屋をいとなむ大家族
打越伸広さんはどこで育ったんですか。
佐藤川口田麦山という山奥の集落です。うちは畳を作る商売でした。一家総出で働き、子どもは親の仕事を見ながら育つ。昔ながらの大家族。
打越どんな子どもでした?
佐藤小さい頃は素直な可愛い子だったらしい。でも中学でヤンチャになりまして。
打越ヤンチャというと、私たちの世代だとダブダブのズボンで。
佐藤短い学ランで。いわゆるヤンキー。『ビー・バップ・ハイスクール』というマンガが流行った時代。その方面の活動で有名でした(笑)。
打越活動って具体的には何するんですか。ケンカとか?
佐藤暴力的なことはあまりしない。平和主義者だから。
ヤンチャ時代もすべて今に生きている
打越ヤンキーなのに平和主義者。
佐藤学校ごとに縄張りがあって威嚇しあうわけですよ。「来るなら来いよ!」と。だけどほんとに武力闘争になると痛かったり怪我したり退学になったりして大変だから、そうならないように考える。どこにどう話をするか、落としどころをどう作るか。田舎の子はヤンキー政治学のなかで社会性を磨く。そのうち落ち着いて、皆真面目に暮らすわけ。自民党県議にも元ヤンの人がいますけど、やっぱり気は合いますよ。
打越党派は違っても。
佐藤「先輩」と言ってくれる。議員としてはあちらが先輩なんだけど、こちらが1つ年上だから、ヤンキーの世界ではかなり優位(笑)。
打越なるほど。
佐藤いまも中学高校のヤンチャ仲間が俺を支援してくれる。幸せだと思います。
打越よかったですね。停学になったことはないんですか。
佐藤1回ある。
打越おっと。ご両親は怒りました?
佐藤いや、親父が喜んだね。秋だったから。畳屋は農家に藁を買いに行く仕事で秋はすごく忙しいわけ。「よし、仕事行くぞ!」。先生が呆れてた(笑)。
恐怖の畳学校でメンタルを鍛えられる
打越高校卒業後は何を?
佐藤進学する気は当然なくて、その時考えたのが「親孝行しよう」ということです。それには商売を継ぐのがいちばんだろうと18歳の自分は思った。それで畳職人になる学校に入りました。
打越ほう。
佐藤そこがすごく厳しかった。頭を刈って来いというので、トサカみたいな頭だったのをバリカンで坊主にした。「こんな姿見られたくない」と人目を避けつつ埼玉県の職業訓練校に行きました。
ところが行ってみたら、学校という名はついていても実際は住み込みで丁稚奉公。ひたすら親父さん奥さん先輩にこき使われて、仕事と礼儀を身につける。
打越ひぇー。
佐藤あれは鍛えられたなあ。地元じゃ大きい顔してたのが、一転、先輩にボコボコやられながら「家族のため将来のため」と唇噛んで耐えぬく。
打越今だったらハラスメント。
佐藤おかげでちょっとやそっとじゃメンタル折れなくなった。「俺は決してこういう理不尽なことに手を染めないぞ」とも思えた。そこで3年頑張り、戻って商売を継ぎました。
職人から議員秘書への転身
打越畳職人だった伸広さんが政治の世界に入ったのはどういうきっかけで?
佐藤叔母さんが大渕絹子という参議院議員だったんです。それで「次の選挙を手伝ってくれ」と言われたのが30歳の時で、1年くらい手伝った。街宣車を運転したりね。そして社民党唯一の地方選挙区の議席を守った叔母さんに「よくやった。私の秘書をやってみないか」と言われて、やってみようと。その時代にはもう畳の需要も下り坂だったんです。
打越政治の世界を覗いて、面白いと思ったの?
佐藤やっぱり思ったね。現場の熱気を知ったし。叔母さんは演説の名手で、学ぶことも多かった。最初の3年は東京の議員会館にいて、そのあと小千谷の事務所に行きました。
打越東京にいたこともあるんですね。
議員会館から夜行バスでバンドの練習に
佐藤その頃は議員会館から週末夜行バスで帰ってきて、小千谷で降りるとバンドの仲間が迎えに来てくれて、駅前のスタジオで練習してた。
打越バンドやってたんだ。楽器は?
佐藤楽器はできないんです。ヴォーカル。声がでかくて自己主張できるから。
打越どういう歌を?
佐藤ポップなやつ。エヴリ・リトル・シングみたいな。
打越え、可愛い。似合わない。横浜銀蝿じゃないんだ。
佐藤似合わないよね。女性ボーカルが抜けたとこに入ったからさ。そのあとブルースロックのバンドから声がかかって、そっちは合ってたね。
通信制大学の法学部で学ぶ
打越議員秘書はつらくなかったですか? 秘書の仕事って朝早くから夜遅くまででしょう。いろいろクレームも来るし、政治家本人もいろんなこと言うし。心折れたりしないかしらと思って。
佐藤そんなの畳学校に比べたら楽勝ですよ!
打越なるほど。
佐藤仕事は優秀な秘書さんに教えてもらったし。コンタクトの取り方とか秘書としての身のさばき方とか。だけどこの時に生まれてはじめて「勉強しなきゃ」と思ったんです。それで法学部に入ることにした。
打越大学に通ったの?
佐藤法政の通信制に。経済的事情で卒業はできなかったけど、この時学んだことは後々すごく役に立ちました。
36歳で県議選に初挑戦 善戦はしたけれど
打越最初に選挙に出たのはいつ?
佐藤36歳の時。当時の北魚沼郡選挙区から県議選に出ました。
打越自民党現職の牙城だったのでは。
佐藤ところがそれなりに戦えたんです。ボランティアと商工会の仲間、吹けば飛ぶような陣営だったんだけど1万2千票以上取れて、向こうが1万6千票。負けはしたけど。
打越その時は結婚なさってたの?
佐藤結婚してた。子どもは2人いました。議員秘書をやめて出馬し、善戦したけど県議にはなれず、さあこれからどうしようと。そこに地震が来た。
打越ああ、中越地震。2004年ですね。
中越地震の震源地 消防団で奮闘
打越川口町は震源地でした。
佐藤あれはすごかった。衝撃的。大きいブラウン管テレビが部屋の端から端まで飛んできて、家は傾いて屋根にでっかい穴が開き、家財道具は皆濡れちゃった。だから昔の写真がほとんど手もとにないんです。
打越お子さんたちは何歳でした?
佐藤上の子が小学校6年生、下の子が4年生。俺は消防団だったから、消防車のマイク握って必死でアナウンスして回った。「避難してください」「小学校のグラウンドに逃げてきてください」。そしたら村の人がわーっと田麦山小学校のグラウンドに集まってきた。壊れた家から壁板ひっぱがしてきて焚火しましたよ。
土曜日で、翌日は文化祭の予定だったから学校は餅つきの準備がしてあった。それで皆で餅ついて食べたんです。俺は朝まで消防服着て、いろんなことしてました。
打越お年寄りはどうしましたか。
佐藤うん、そこを何とかしないとならない。小学校には運動会用の三角屋根のテントがあるから、それを何個も作って、卒業式の紅白幕をテント3張にぐるっと巻いてスペースを作り、じいちゃんばあちゃんたちに入ってもらった。毛布やら何やら、近所から借りてきてね。それからサッカーゴールにブルーシート被せて、穴掘って、トイレを作った。その日の夜のうちに皆やりました。
(つづきます)→第2回へ
佐藤伸広(さとう・のぶひろ)
1967年新潟県北魚沼郡川口町(現・長岡市)生まれ。小出高校卒。畳職人を経て参議院議員秘書。2010年、長岡市議会議員。2015年、新潟県議議員。2018年、立憲民主会党新潟県連幹事長。2021年より衆議院議員米山隆一秘書。趣味はスキー、プラモデル製作、映画鑑賞。好きな映画は『ゴッド・ファーザー』。好きな作家は司馬遼太郎。